転轍器

古き良き時代の鉄道情景

分鉄局の8620 配置と動向について

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 大分鉄道管理局の柳ヶ浦・大分・豊後森・南延岡に足跡を残した8620を、手元にある配置表からその動向を辿ってみる。全通前の日豊本線に8620が現れたのは大正9年頃でそれまでの8550・6760・5700等を置換えて、その後のパシフィック登場まで日豊本線の主力機として活躍した。

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 大分・宮崎県境の宗太郎越えを克服して豊州本線と宮崎本線がつながって日豊本線になった大正12年、8620は南延岡に配備され、以降数を増やしている。この時点で後年の在籍ナンバー、38680・48692・48693・68698・68699・78625・78684を見つけることができた。

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 大湯線と久大西線がつながって久大本線となった昭和9年豊後森機関区が開設され11輛の8620と6輛の9600が配備され久大本線の主力機として活躍を始める。78683が南延岡から移っている。柳ヶ浦は補機配置の走りかもしれない。南延岡はナンバー変わらず2輛減となっていた。

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 大分はC51とC55の進出で半数が転出し、南延岡は9600が配置されるも数は変化なしであった。豊後森は逆に9600は撤退している。柳ヶ浦は大分の38680に変わっていた。

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 大分が再び数を増やしているのは豊後森の一部を集約したものと思われる。豊後森はC58が一挙14輛配置されている。南延岡は一部大分と豊後森のナンバーに変わっている。柳ヶ浦は9600が配備され8620はいったん姿を消す。

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 8620の分鉄局合計は前回から8輛減らして23輛となった。大分はC55増備、C58の集約で8620は入換、小運転用の配置となった。柳ヶ浦はD50群の中に再び復活している。南延岡は鹿児島本線系にC57が投入された影響でC51が玉突きで転入し、従来の8620は若松へ転出したようだ。新たな機関車の投入でC57→C55→C51→8620等下位線区の置換えを垣間見ることができた。豊後森はC58を大分へ移した関係から再び増加している。

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 大分は78684が豊後森から転入して4輛。南延岡は48693が再び戻って3輛となり、ナンバーは変わらず昭和43年まで続く。分鉄局計で2輛の減。久大本線D60の投入で8620の運用はその後豊後森以東の運用になるようだ。

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 豊後森は48639・58649・58651・68637は廃車となってその補充はなかったと思われる。大分のD60とのすみ分けができたからかもしれない。78625は大分に記載されているが後に豊後森に戻っている。

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 48679が大分へ転出して柳ヶ浦から8620の足跡は途絶えてしまった。南延岡は不変のナンバー配置。豊後森は78625が戻って68698・78683が廃車されている。

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 柳ヶ浦から来た48679は鹿児島へ転出し、そこで入換に便利なC56タイプの凸型テンダを付けて蒸機最終まで稼働した。

 大分は最後のナンバー3輛、豊後森はDL化までの最後の6輛となった。

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 大分は58652が廃車されて1輛減。南延岡は68638が廃車、入れ替りに都城から78626の転入で3輛体制を維持。豊後森は58625・78625が廃車され、68623は鳥栖へ、68660は若松へ転出した。その後残った78627は遠く五能線の罐として旅立って行った。

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 28627は昭和47年3月に早岐から転入、48年8月には若松へ転出し、78626が南延岡最後の8620となった。

 かくして大分鉄道管理局に足跡を残した8620は合計67輛(あくまで昭和6年配置表以降の計測)。内訳は4桁番号2、100番台6、200番台2、300番台11、400番台14、500番台9、600番台12、700番台10、800番台1であった。8620製造数は672輛、その約1割の罐達が半世紀に渡って日豊本線豊肥本線久大本線・細島線・宮原線の客貨列車に入換に励んできたことになる。蒸機末期のほんの数年間その活躍を見ることができたが、遠い時代に思いを馳せるのも鉄道趣味の醍醐味であろう。

■大分鉄道管理局は九州の4鉄道管理局が発足した昭和25年8月からの名称である。掲載した配置表は変遷の流れを見やすくするため便宜上大分鉄道管理局とした。正式には国鉄誕生の昭和24年以前は鉄道省門司鉄道局の組織名である。