転轍器

古き良き時代の鉄道情景

幸崎

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 日豊本線を大分から下りに乗ると高城、鶴崎にかけて臨海工業地帯を左に見て大野川を渡ると田園が開け大在、坂ノ市を過ぎる。東に向かう線路は子猫川を渡る直前に一気に右に90度曲がって大分から5つめの幸崎に着く。鉄道建設期の大正時代は佐伯線と呼ばれ幸崎は一時期終着駅となる。そのなごりかどうかはわからないが幸崎は列車の始発終着が多く設定され、昭和42年の電化の際も境目となって大分近郊の結節点といえるだろう。

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 幸崎は昭和38年5月に廃止された日本鉱業佐賀関鉄道の接続駅であった。762ミリの軽便鉄道であったので国鉄線との接続はなく国鉄駅本屋側貨物線寄りに日鉱幸崎駅が設けられていた。佐賀関と豊肥本線中判田とを結ぶ国鉄バス佐賀関線が設定され、幸崎はその中継地点であった。

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 日本鉱業佐賀関鉄道日鉱幸崎駅は趣味誌に掲載された写真を見ると国鉄駅のホームからはかなり離れていたので貨物線に続く画面右寄りだるま転轍器の辺りではないかと思われる。 日豊本線幸崎 S60(1985)/8

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 振り返ると「立入禁止」の門扉が閉められた濃硫酸積込み設備があり、日本鉱業佐賀関鉄道は右に大きくカーブして行くものと推測する。 日豊本線幸崎 S60(1985)/8

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 日本鉱業専用線を見る。タンク車がたくさん入っている。 日豊本線幸崎 S60(1985)/8 

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 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス MKU637X-C7-3 昭和38(1963)年 佐賀関から

 幸崎駅は中央やや左下、日本鉱業佐賀関鉄道は黒矢印で右に曲がる。赤矢印はタンク車が停まる専用線日豊本線はその左側、青矢印で坂ノ市に続く。日豊本線下り列車の左側車窓は幸崎駅手前でタンク車が並ぶ光景が目に止り、線路はまるで佐賀関に続いているのではないかと思う位遠方まで延びていた。

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 1番線を通過するDF50牽引の20系“富士”。幸崎は2面4線で本屋側から下り1番線の間に貨物線2線が敷かれホームを跨ぐ跨線橋は長い。 日豊本線幸崎 S48(1973) 撮影:大分市 渡邊孝司さん

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 下り1593列車の運転時刻は坂ノ市16:00発、幸崎16:35発なので幸崎で少しの入換時間が確保されている。遠く横手から来たD51871〔延〕は日豊本線の顔になっていた。構内終点方は転轍器標識や転轍転換機、リレーボックスが見え良き鉄道情景が漂っている。 1593レ 日豊本線幸崎 S48(1973)/8 撮影:大分市 渡邊孝司さん

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 大分運転所配置蒸機唯1輌になったC57115〔大〕が孤軍奮闘、DF50のスジを懸命になぞっていた。幸崎~佐志生間は15.2‰の山越えがあり、1423mの佐志生トンネルがサミットで佐賀関町臼杵市の境界でもあった。5輌の客車を従えたC57115〔大〕は下り勾配を颯爽と走り抜けて行った。 528レ 日豊本線幸崎~佐志生 S47(1972)/8 撮影:大分市 渡邊孝司さん

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 西側、子猫川沿いから構内を遠望する。明朝の上り通勤・通学列車の増結車が停泊していた。蒸機時代は幸崎小運転に8620や9600が使われていたがこの時はDE10の牽引と思われる。 S53(1978)/7/14

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 2番線から佐伯発大分行が発車。ED7650〔鹿〕の顔に西日が反射する。ED7650〔鹿〕は昭和45年鹿児島電化の際に増備されたグループで鹿児島機関区に配置されている。幸崎であいまみえたので大分の罐とばかり思っていたが、区名札は「鹿」を掲げこの時は借入れなのか、日豊本線での運用もあったのか気になるところである。 2526レ 日豊本線幸崎  S53(1978)/7/14

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 子猫川橋梁にかかるR400の右曲線を行く475系急行“日南2号”。臼杵を出ると幸崎に停車、次は鶴崎に停まる。後方に幸崎下り場内信号機が見え、その後ろにタンク車の列が見える。 日豊本線坂ノ市~幸崎 S57(1982)/1

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 ED7623〔大〕がパズルのような入換を行っていた。本線上も2線の側線も皆タンク車で、緩急車はワフ30077、形式ワフ29500であった。 日豊本線幸崎 S57(1982)/1 

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 本屋側から佐志生方を見る。タンク車が並ぶ。 日豊本線幸崎 S60(1985)/4 

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 同位置から振り返ると左が日豊本線坂ノ市方、右は濃硫酸積込み設備の専用線が延びている。 日豊本線幸崎 S60(1985)/4

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 短い下り貨物列車が子猫川橋梁を渡る。2輌の小麦ホッパホキ2200は高鍋へ向かうのであろう。ワフの白が塗られた手摺りとステップがよく目立つ。 日豊本線坂ノ市~幸崎 S58(1983)/10

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 小倉発宮崎行“にちりん21号”が子猫川橋梁を渡る。幸崎停車で先ほどの貨物列車を追い抜く。左後方にタンク車の列が見える。「二級河川こねこがわ」の標識も写っている。 日豊本線坂ノ市~幸崎 S58(1983)/10

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 幸崎発柳ヶ浦行8輌編成が3番線から発車する。幸崎の広い構内と2面のホームは幹線の列車折返し駅の雰囲気があり、8連の始発電車はその情景を盛りあげている。手前の2線は日本鉱業専用線の分岐で濃硫酸を積込む設備のヤードへ続く。 2534M 日豊本線幸崎 S59(1984)/6/20

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 大分~幸崎間の区間列車は9600や8620の牽く客車・貨車混結の列車を見たことがある。昭和44年はC58牽引の大分発幸崎行の旅客列車も設定されていた。それらの機関車は折返し間合いにタンク車の入換仕業があった。本線貨物牽引のD51専用線に入って行ったであろう。「専用線一覧表」で幸崎の作業方法は国鉄機と記載されていた。電化後その仕業はDE10が出張していた。
 この日のヤードは滞留貨車が少なく、発送・到着の前後で輌数の変動があると思われる。 日豊本線幸崎 S59(1984)/6/20

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 専用線のヤードは駅のはるか向こうまで延びていた光景を見て、このまま幸崎から佐賀関までレールがつながっていたらどんなに素晴らしかったかと想像していた。「佐賀関ー幸崎」の方向幕を出した国鉄バスが駅前に到着した。列車の接続時刻なのか、駅前はほんのひと時ではあるが賑わいを見せた。良き時代の駅前情景を撮れてよかったと思っている。 日豊本線幸崎 S60(1985)/8

箱根登山鉄道

 朱色と灰色のコントラストが美しい登山電車に乗って箱根の山は天下の険、強羅へやって来た。登山電車ということだけあって80‰の勾配はケーブルカーのような錯覚におちいる。途中3箇所のスイッチバックは勾配の凄さを実感するのと、運転士と車掌が前後入れ替る光景が印象に残っている。強羅は雪まじりのみぞれで強烈に寒かった。

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 強羅は登山鉄道の終点で簡単な2線車庫が設けられている。ホームから見える広告看板が温泉駅の風情を漂わせている。「強羅」のサボを付けた113が入ってきた。1435ミリの線路幅が実感できる。 箱根登山鉄道強羅 S51(1976)/2

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 小田原行の115が待機する。15mの車体は路面電車のようで運転席はまん中にある。床下は水を撒きながら山を上下するのに必要な水タンクが付き、屋根上は抵抗器が載せられている。 箱根登山鉄道強羅 S51(1976)/2

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 車体の塗分けは朱色と灰色でその境目のウインドシル・ヘッダーは白に塗られている。115は車体の輪郭とウインドシル・ヘッダーにリベットが打たれているが110はそれが無いように見える。 箱根登山鉄道強羅 S51(1976)/2


 

伊豆急行

 伊豆半島東海岸を走る鉄道を眺めると、東海道本線熱海から分岐する伊東線は熱海~伊東感間16.9㎞、それに続く伊豆急行線は伊東~伊豆急下田間45.7㎞で国鉄と私鉄が相互乗入れする観光路線である。伊豆急行線は私鉄とはいえ国鉄線に乗入れる関係からか、いわゆる“私鉄”らしさを感じさせないブルー系のツートンカラーが美しい100系国鉄車輌のように見えたものだ。前面貫通形の20m車体2ドア、そして長編成で来るとまさに国鉄の急行形と錯覚してしまいそうだが、おでこの2つライトが何とも不似合であった。ちなみに塗色の名称はハワイアンブルーとオーシャングリーンというらしい。

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 伊東は国鉄伊東線の終点で昭和36年に開通した伊豆急行線の起点駅でもある。山側のヤードに並ぶ黒い貨車と華やかな私鉄電車が同居する光景が奇異に映る。伊東線の貨物列車は国府津発の下り貨物を見ているので新鶴見のEF15が伊東まで牽いて来ていたのかもしれない。 伊豆急行クモハ111 伊藤線伊東 S51(1976)/2/5

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 伊豆急下田発熱海行2642M クモハ128 伊豆急行線片瀬白田 S51(1976)/2/6

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 「臨時」の幕を出した167系が通過する。列車番号は「臨9726」と読める。 伊豆急行線片瀬白田 S51(1976)/2/6

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 ハワイアンブルー伊豆急長編成電車が国鉄線を疾走する。後追いでカメラを構える若き日の自分がフロントガラスに映っている。伊東線は熱海~来宮間だけは複線でホームのないとなりの東海道本線と並ぶと複々線のように見える。 クモハ117 伊東線来宮 S51(1976)/2/6

構内立ち入りができなかった若松機関区

 昭和45年の夏休みは初めて筑豊に足を踏み入れる。心踊らせて若松機関区の門をたたくも、事故防止のため構内の立入は曜日と時間を定めて制限しているとのこと、遠路から申し訳ないが出直してほしいと告げられ、構内に駐機する機関車を指をくわえて見るだけで退散するしかなかった。

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 門司鉄道管理局総務部広報課長名の文書を機関区事務所で渡される。前年の鉄道少年の事故は報道で知っていたかどうか記憶は定かではないが、ここまで厳しいとはと泣く泣く機関区を後にした。今改めて読み返すともっともな文面であり、「折角訪れる方の心情を察すれば忍びないものがあります」の譲歩で次のスケジュールが救われる結果となる。当局のせめてもの心意気であろうか。 「動力車区の見学ならびに機関車の撮影について」のB4文書左側

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 当時中学生の私は注意事項3が該当し、今後の機関区での対応は数人を集めて機関区の助役や構内掛同伴で撮影を行ったように記憶している。SLブーム加熱のこの時期は撮影者のモラルや安全意識が問われた時でもあった。 「動力車区の見学ならびに機関車の撮影について」のB4文書右側

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 駅へ向かう道の枕木柵の間からC553〔若〕が見えた。残念ながら廃車された後で本線上を駆ける元気な姿を見ることは叶わなかった。C55は昭和44年の配置表では3・15・19・46・51・52・53・57の8輌が揃っていたがこの時は3・15が退いて6輌体制になっていた。 若松機関区 S45(1970)/8/3

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 転車台の向こうは廃車されたシールドビームのD50231〔若〕が置かれていた。D50は90・140・205・231の4輌が配置されていたがこの時の稼働機は90と140だけだったようだ。手前に転車台のおもしろい形の操作室と電動機が写っている。 若松機関区 S45(1970)/8/3

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 D50140〔若〕は蒸気をあげ今にも動きそうな鼓動が伝わってくる。逆光に浮かぶ前照灯と化粧煙突、砂箱がやけに大きく感じる。元柳ヶ浦のD5090〔若〕に会いたかったが本線仕業に出ているのであろうか。 若松機関区 S45(1970)/8/3

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 庫の中はC5557〔若〕が見える。C5557は大分から宮崎を経由せず直接若松へ移動している。この後C5552と共に吉松へ渡り肥薩線吉都線日豊本線で蒸機時代の最後を飾っている。 若松機関区 S45(1970)/8/3

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 若松機関区のキュウロクはデフレクタが無い罐ばかりであった。そのかわりフロントデッキに大きな手摺りが付いて入換仕業に都合の良い措置であろう。 49693〔若〕 
S45(1970)/8/3

若松機関区

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 筑豊本線の旅客列車は門ワカの客車と共に若松機関区所属機が担当してきた。時代とともに8620・C51・D50・C55・C57と変遷を重ね蒸機末期はD60D51へと移り変わっていた。独特なスタイルのデフレクタを装備したC5552〔若〕は鳥栖・大分・宮崎を経て昭和43年に若松へ来ている。47年3月には吉松へ渡り肥薩線吉都線日豊本線で蒸機時代の最後を飾っている。 若松機関区 S47(1972)/1/6

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 ハチロクは室木線と香月線、入換に使われていた。38634〔若〕はデフレクタが無いのでボイラがスマートに映り、缶受とフロントデッキの様子がよくわかる。 若松機関区 S47(1972)/1/6 

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 昭和46年7月、C5753〔若〕廃車による補充のため豊岡から転属したC5752〔若〕は集煙装置を付けたままで筑豊本線を走っていた。撮影時は撤去された姿であったが、この後3月には休車、5月に廃車されている。煙室扉とフロントデッキに書かれた数字が気になる。標識灯は左右でタイプの違う物が付いているように見える。 若松機関区 S47(1972)/1/6

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 撮影時はC55・C57が数を減らしD51が増殖する過渡期であったと思われる。庫に収まるD51225〔若〕は元早岐の罐であった。標識灯は筒形でもなく埋込式でもない珍しいタイプが付いている。 若松機関区 S47(1972)/1/6

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 D511150〔若〕は昭和44年の配置表を見ると鳥栖の配置であった。その時点で若松機関区にはD51の配置はなく、D50-4、C55-8の布陣であった。 若松機関区S47(1972)/1/6

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 形式入ローマン書体の大形プレートを付けた69646〔若〕はパイプ煙突ではあるが、デフ無し、エンドビームのっぺらの片側開放てこでひと昔前の機関車のような印象を持つ。 若松機関区 S47(1972)/1/6

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 北九州は早鞆の瀬戸から関門海峡洞海湾沿いにかけて大規模な貨物ヤードが展開していた。外浜・門司港・門司埠頭・葛葉・門司操車場・小森江・東小倉・浜小倉・上戸畑・枝光・西八幡・黒崎港・黒崎・折尾操車場・折尾とこの区間の海側の車窓は線路の帯が延々と続いていた。このヤードの入換機のことを北九州市の大塚孝さんにお訊ねしたところ、「上記外浜から西八幡までが門司機関区受持ち(昭和38年門司港区、昭和35年東小倉区それぞれ門司区に統合)でC11・C12・8620・9600が使われた」とのことであった。「若松機関区受持ちの入換・小運転は黒崎・折尾操車場(東折尾)・折尾で9600が使われた」ことと、さらに「若松はヤード入換・中継・桟橋に入換の甲・乙組があり9600と8620使用」とたいへん興味深い返答をいただいた。石炭輸送全盛期に思いを馳せる気概が膨らむ。
 ランボード回りに配置された機器がとても賑やかに見える29692〔若〕は長大な石炭列車に、藤ノ木石炭桟橋に、短絡線を通って鹿児島本線沿いの小運転にと活躍したであろう。 若松機関区 S47(1972)/1/6

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 大分運転所から昭和46年3月に転属したC5753〔若〕は筑豊本線での稼働はわずか4ヶ月と短く、若松機関区で再会した時はこの姿で残念であった。C5753が大分から若松へ転じたのは若松のC5553の廃車取替のためであった。C5553→C5753の交代劇は異形式同ナンバーという点でおもしろいが、実はC5553は日豊本線C55全盛時代の大分配置車で、C57大分進出により宮崎へ転じ、さらにヨンサントオのED74転入によるC57大分→宮崎の移動でC55宮崎→若松へ押し出された経緯がある。元大分のC55はC57に追われ続け、最後にバトンを渡したのはやはり大分のC57ということで興味ある機関車移動の図式である。私の整理では「C5553は昭和47年、故郷の大分に戻り大分市若草公園で静態保存された」と信じて疑うこともなかったが、平成時代になってその機関車はC5553のナンバープレートを付けたC5546であった、ということを知り驚愕し言葉を失った。 若松機関区 S47(1972)/1/6

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 機関区の給炭設備は直方・鳥栖・熊本・鹿児島で見られたタワー状のタイプと長崎・早岐・若松・大分のような逆三角形の炭槽とガントリークレーンの組合せ等さまざまなタイプがあった。若松のガントリークレーンのスパンは長崎・早岐・大分の物より短くやや小振りであった。台座が煉瓦の古い給水塔に砂置場と砂乾燥庫も見える。 若松機関区 S47(1972)/1/6

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 2棟6線の矩形庫と古い傘式の照明塔や電柱、だるま転てつ器が見える構内は格好の機関区風景といえる。後方は洞海湾を跨ぐ若戸大橋が見える。 若松機関区 S47(1972)/1/6