転轍器

古き良き時代の鉄道情景

オハユニ61の運用 門郵13

 鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション10に鉄道郵便車の記事があり、「門郵13」の運用表が掲載されていたのに目が止る。「門郵13」そのものの詳述はなく、運用の例示だけであったので、この壮大な運用を辿り、想像を膨らませて当時の鉄道情景を思い浮かべてみた。出発・到着時刻は運用表の列車番号と時刻表昭和33年11月号とを照し合せて拾い出した。

 この略図は行橋客貨車区のオハユニ61が「門郵13」で走行する路線を表わしている。この当時、行橋から伊田・後藤寺を通って添田までが田川線、城野から香春、大任経由で彦山、夜明に至るのが日田線と呼ばれていた。石田から城野、香春から伊田への短絡線ができたばかりの時と思われる。当初の起点東小倉への線路は貨物線となっていた。

■1日~2日め

 行橋配置9輛のオハユニ61は、田川線伊田線・日田線・日豊本線を巡る出区後7日めに帰区する複雑怪奇な運用をこなしていた。
 スタートは日豊本線518レ、この列車は佐伯発門司港行でたぶんC55牽引、オハユニ61は編成の前か後部かはわからないが停車時間10分の間に連結される。門司港からの折返しは大分行523レで柳ヶ浦で解結される。柳ヶ浦から門司港まではその日か翌日かは不明。2日め431レは日豊本線を下り行橋から田川線に入る。運用表の太線が郵便扱いをするらしいが、郵便扱いには郵便局員が乗る郵便取扱便と護送便・締切便・託送便の区別があるらしく、この場合はどうなのかはわからない。田川線2往復めは後藤寺終着。それ以南はオハユニ61を貨物列車に連結、添田から彦山までは最終列車として客扱いを行った模様。実際の列車はどうであったかは知る由もないが、C11が数量の貨車とオハユニ1輛を牽く光景を思い浮かべる。

■3日~5日め

 前日の貨物列車で後藤寺に戻って来たオハユニは朝一番の行橋行に連結される。「后3位」とは連結位置であろうか。折返し行橋からは「前3位」となって郵便扱いの太線で彦山まで記されている。彦山から日田間は客扱いなく、日田から門司を往復して3日め終了。日田駐泊の後、4日めは再び日田線全線門司まで1往復半をこなして門司駐泊。門司から直方までは詳細不明。5日めは田川線列車番号伊田線経由行橋に戻る。行橋で半日休んだ後、休日運休の小倉往復に運用される。田川線での編成そのままかもしれない。日豊本線であるが、行橋のC11が牽引したのではないだろうか。この当時小倉で折返す客車列車は他になく、機回しは小倉構内で行われたのであろうか。行橋到着後はそのまま列番が変わって田川線へ入り、伊田線で再び直方に戻り5日めを終える。自動車が普及する前の時代、オハユニは郵袋と手・小荷物が満載されていたのかもしれない。

■6日~7日め

 直方から後藤寺への回送は前夜に行われたかもしれない。6日めは田川線朝3番412レで行橋へ向かう。田川線伊田線で直方からの復路は郵便扱いの太線、郵便局員が乗車した、と思いたい。東京門司間のような幹線筋では車内で郵便物の区分け作業があるらしいが末端のローカル区間はどうなのだろうか。とても気になる。田川線添田往復の後7日め、彦山往復して運用終了となる。7日めにしての基地帰還であった。
 この時代九州管内各地にオハユ・オハニ・オハユニが配置されて同じような郵便荷物輸送が行われていたものと思われる。その後各線とも気動車化が進みその仕事はキハユニ26へと引継いでいかれたのであろう。

豊の国号 フィナーレ

 全日程を終了し別府で乗客を降ろした“豊の国号”C581が12系客車5連を牽いて大分へ戻って来た。大分構内が塞がっているのか、下り場内信号機手前で足止めされている。最徐行から停車したので、まるで回りの見学者や撮影者のためのサービスかと勘違いしそう。踏切待ちの車の列はしばらく動けそうにない。上りの単機ED7680〔大〕は西大分発コンテナ列車の牽引機のようだ。 回9705レ 日豊本線西大分~大分 S56(1981)/12/11

 牛歩の如く、そろりそろりと前進するC581。“豊の国号”最終日の余韻を味あわせてくれているかのようだ。誰も動かずC581への視線もそらさない。それに呼応するかのように上り単機の機関車もこちらを見守っているように徐行している。 回9705レ 日豊本線西大分~大分 S56(1981)/12/11

 “豊の国号”幕切れを迎える。まるでエンドロールが動き始めたようにC581はゆっくりと歩を進め、ファインダーから遠ざかって行った。“豊の国号”C581は私が国鉄時代に撮った最後の蒸機列車となった。

豊の国号 復路

 第2大野川橋梁を渡る。鉄橋が俯瞰できる台地は大勢の撮影者で埋まっていた。“豊の国号”復路は三重町12:37発、菅尾12:46:30通過、犬飼13:01:30発、竹中13:10:30、中判田13:19、滝尾13:29:30、下郡(信)13:34:30通過、大分13:39:30着のダイヤであった。 9705レ 豊肥本線菅尾~犬飼 S56(1981)/12/6

 逆向きのC581は下郡信号場の左カーブを汽笛を鳴らしながら徐行する。ここも撮影者が多数待っていた。真っ黒いテンダに貼られた黄色と緑色でデザインされた「めじろ」のヘッドマークが印象的であった。 9705レ 豊肥本線下郡(信) S56(1981)/12/11

 下郡信号場徐行。スハフ12のディーゼル発電機の音が唸る。

 C581が別府湾に姿を現す。

 珍客通る。 単回9705レ 日豊本線東別府~西大分 S56(1981)/12/6

 三重町往復の運転は無事終了し、12系客車は別府中線に残してC581だけ大分運転所へ帰区する。回送ダイヤは別府15:00発、東別府15:05、西大分15:13:30通過、大分15:18着であった。 単回9705レ 日豊本線東別府~西大分 S56(1981)/12/6

豊の国号 往路

 豊肥・日豊本線が並走するここは、かつてC58・D51・8620・9600が来るのを待った思い出の地。汽笛数声、華やかなC581“豊の国号”が駆け抜ける。機関士は線路端の小さな見学者に手を振ってこたえる。 9704レ 豊肥本線下郡(信)~大分 S56(1981)/12/10

 かわいいこども達が“豊の国号”の見学に来ていた。彼ら彼女らはもう四十路越え、この時に見送った汽車のこと、憶えているだろうか。

 7404レ“豊の国号”は大分10:15発、下郡(信)10:19:30通過、滝尾は10:23:30通過で犬飼まで止らない。たくさんの撮影者が構えるなか、意気揚々と滝尾を通過する。 豊肥本線滝尾 S56(1981)/12/11

 “豊の国号”通過時刻になると三々五々地域の人たちが集まってきた。 9704レC581滝尾通過!

豊の国号 昭和56年12月6日

 出区準備完了。きょうの仕業は12系5連を従えて別府へ回送、別府から三重町を往復し、12系は別府に残してC581は単機で帰区する。 大分運転所 S56(1981)/12/6

 客車留置線の12系を迎えにいざ行かん!

 12系のテールマークも機関車と同じデザイン。

 4番ホームへ据え付け。

 C581は分オイの12系5連を従えて始発駅別府に向かう。大分8:18発、西大分8:20:30、東別府8:35通過、別府8:40着のダイヤであった。 回9704レ 日豊本線東別府~西大分 S56(1981)/12/6

 “豊の国号”回送編成は遠くたなびく湯けむりや山腹のホテル街を背景に別府市街の高架へと向かう。 回9704レ 日豊本線東別府~西大分 S56(1981)/12/6

 奥豊後大野川沿いの河岸段丘を行く。犬飼から上り坂となってC581は煙の勢いを増して力行する。 9704レ“豊の国号” 豊肥本線菅尾~犬飼 S56(1981)/12/6

 久しぶりの蒸機列車にカメラの手も震える。スハフ12の窓から溢れる笑顔に感動。

 三重町11:08着。構内は“豊の国号”見物の大勢の人でごったがえしていた。下り線は“火の山1号”が入線したところ。この後機関車の回りで記念撮影が始まり、物々しい警備の緊張感も伝わってくる。貨物側線の水運車ミム100はC581への給水用のようだ。 9704レ 豊肥本線三重町 S56(1981)/12/6

 9年ぶりに帰って来た豊肥本線のC58。汽車見物にこれだけの人が集まったのはお召列車が走って以来かもしれない。