転轍器

古き良き時代の鉄道情景

東京急行電鉄田園都市線の思い出

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 手元にある多摩田園都市20周年記念乗車券4枚組は昭和50年7月、旗の台駅発行であった。当時の田園都市線大井町からすずかけ台まで開通していた。切符の図柄は青葉台駅前「風見の鶏」を背景に3000系・こどもの国線3400形・オールステンレス7000形・最新鋭8500形が配置されていた。裏面は40円区間:溝の口長津田間開通は昭和41年4月1日、60円区間:こどもの国線開通は昭和42年4月28日、90円区間:つくしの~すずかけ台間開通は昭和47年4月1日、110円区間:8500形就役は昭和50年2月20日と年代順に記されている。

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切符袋表面。

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切符袋裏面は多摩田園都市の説明が記されている。

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 昭和49年春、上京して初めて降り立った駅は華やかな山手線目黒駅であった。そこから緑色一色の3輛編成の電車に乗り、今来た山手線の線路を見下ろしながら急勾配を下り大岡山という駅で下車する。今度は同じ緑色であるが少し長い編成に乗り換えて駅間の短い駅をたくさん通り過ぎ、大きな川を渡って溝の口という駅で下車した。これが東急線の第一印象であった。以後しばらく住まいが決まるまで溝の口から旗の台まで田園都市線の人となる。単線の国鉄線しか知らない田舎者は都会の電車線に圧倒された。汽車好きはやはり先頭車に乗車し前方の行方を凝視する。驚いたのは先頭車輛から先行電車が確認できることだ。信号現示の変化とともに先行電車に追いついたり離れたりは満員電車の中の楽しみでもあった。当時の記憶を振り返ると、溝の口界隈は街並みを見下ろせる近代的高架線。二子新地前・二子玉川園・上野毛・等々力・九品仏等は独特な駅名の響きがあった。自由が丘は東横線と立体交差し地平の田園都市線には留置線があった。大岡山は目蒲線の乗換駅。旗の台は地平の池上線から少し離れた所にホームがあった。何気なく捨てないでとっておいた武蔵小杉と自由が丘に鋏の入った車内補充券は当時の東急線路線網を知るよりどころとなった。

 田園都市線はその後、二子玉川園最寄りの模型店へ行くのに、遊行で渋谷や横浜へ出る際にも乗車したが不覚にもカメラを向けていない。前面2枚窓の緑や銀色の“雨蛙”と呼ばれた電車や、前面がくの字に折れ曲がったアメリカンフェイスのステンレスカーに当時の感覚では抵抗があったのか、馴染めなかったのかもしれない。あれから48年、往時を思い起こすにはやはり写真が欲しく、東京都の大森工場さんにお願いして貴重な記録をお借りした。

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 3450形は昭和6年から昭和11年にかけて製造された初期の鋼製電車。大井町行オールM編成3450形4連が大岡山へ向かう。後方の複線は目蒲線で、洗足から合流した線はこの先奥沢へ進むのに田園都市線をアンダーパスするようだ。 田園都市線大岡山~緑が丘 S51(1976)/9/23 撮影:東京都 大森工場さん

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 ステンレスカー編成と思った色合いのちがう手前2輛は7200+7500という東急電鉄でたった2輛だけ導入されたアルミ試作車とのこと。他のステンレス車と連結して運用されている。 田園都市線宮崎台~宮前平 S50(1975)/12/2 撮影:東京都 大森工場さん

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 6000系は全電動車方式のセミステンレスカー。個性の強い独特な顔とコルゲート板が印象的な電車であった。正面の輪郭ぎりぎりに配置された窓と前照灯のお面はDF50初期形と似ていると思うのは私だけであろう。 田園都市線宮崎台~宮前平 S50(1975)/12/2 撮影:東京都 大森工場さん

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 昭和50年から地下鉄乗入仕様で増備された最新鋭の8500系はステンレスボディに赤のラインが印象的であった。新玉川線開業前は田園都市線で使用されていたとのこと。当時終着駅であった「すずかけ台」を掲示したデハ8502。旗の台は田園都市線と池上線が交差する位置からホームが少し離れて乗換に時間を要していた記憶がある。 田園都市線荏原町~旗の台 S50(1975)/12/2 撮影:東京都 大森工場さん