オハニ36は急行用で車内設備はスハ43と同等であった。久大本線に来る前は京都~都城間の急行“日南”や門司港~西鹿児島間の夜行“みやざき”で颯爽と走っていた。 オハニ3615〔分オイ〕 大分運転所 S59(1984)/1/17
私の国鉄時代は蒸気機関車の終焉、路面電車・旧形客車・急行列車・貨物扱い・専用線・荷物列車・特定地方交通線の廃止など、雲消霧散の歴史であったように思う。新しいものは「そのうちいつか」に対して、日限を切られた廃止関連はせきたてられるように撮影に動いた記憶がある。とりあえず撮っておいたネガはプリントや整理が追いつかず、後年デジタル化の際に「こんなものを撮っていたのか!」と改めて新しい発見があったりする。旧形客車終焉の際に撮っていた座席荷物合造客車はオハニ36とわかり、改めて以前に撮った久大本線客車列車の写真を見直すきっかけとなった。
久大本線蒸機時代はオハユニ61とオハニ61が郵便荷物輸送を担っていた。 1635レ 湯平~庄内 S44(1969)/12/29
蒸機時代に見た久大本線の客車列車に連結された座席荷物合造客車は、荷物扉が1つなのがオハニ61、2つあるのがオハユニ61であった。昭和46(1971)年に無煙化された久大本線からはしばらく遠ざかっていたが、昭和50年代になって再び線路端へ向かうようになっていた。牽引機がD60からDE10に変わっただけで、客車列車は未だ健在であった。そして半室荷物車も蒸機時代と同様に連結されてオハニ61とばかり思っていた。ネガスキャンの画像をブラウザで拡大して見て、オハニ61と思っていたその車輌はオハニ36とわかり驚いた。この時大分運転所には15・20・21の3輌が居ることを確認する。オハニ36といえば10系客車のような台車(TR52)を履く急行用で、夜行急行“みやざき”に連結されていた。宮崎往復の際はこの列車を利用し、後方の自由席は満席で座ることができず、寝台車を挟んだ前寄り1号車のオハニ36に乗車した思い出がある。亜幹線の日豊本線では半室荷物半室郵便のスユニとオハニで輸送量は十分であった。
旧形客車終焉の便りを聞いた頃のスナップ。ネガスキャンして画像を確認するまではオハニ61と思い込んでいた。 オハニ3621〔分オイ〕 大分運転所 S58(1983)/10/27
オハニ36連結の下り列車は上り鳥栖行気動車が発車した後にゆっくりと動き出す。野矢は下り出発信号機が2基建って下り列車は上下線両方に進入できる。 2635レ 野矢 S53(1978)/11/29
昭和43(1968)年と48(1973)年の配置表(鉄道図書刊行会・交友社)、時刻表巻末の「列車編成表」(日本交通公社)、鋼体化客車車歴表(「鉄道ピクトリアルNo.702」)からオハニ36が久大本線ローカル運用に就くまでの流れを振り返ってみたい。
昭和43(1968)年の配置表でオハニ36 15・20・21のナンバーを探してみると3輌とも都城に配置されていた。「列車編成表」から半室荷物車を探すと京都~都城間の急行“日南3号・1号”があり、オハニ36は1号車に組み込まれていたものと思われる。この列車は3編成が必要でオハニ36は予備を入れて合計4輌が都城配置であった。次いで昭和47(1972)年3月号の時刻表では“日南”は全室荷物車になって、オハニ36は門司港~西鹿児島間の急行“みやざき”で運用されるようになり、受持ちも都城から門司港へ変わったものと思われる。昭和48(1973)年の配置表では門司港配置となっていた。
昭和50(1975)年3月の新幹線博多開業時は“みやざき”から“日南4号”へ列車名は変わるもオハニ36は健在、転機が訪れたのはブルートレイン20系の急行格下げが実施された昭和53(1978)年3月の改正であった。“日南4号”の編成は寝台20系+座席12系へと一新され、荷物車もスユニ61から新鋭スユニ50へと変貌を遂げる。オハニ36は昭和53(1978)年1月号の時刻表までは確認できたので、この後に編成から外されたものと思われる。次の職場として、客車列車の荷物輸送が残る久大本線に白羽の矢が立ったのは当然の成り行きで、オハニ61の後継として活躍することになる。門司港から大分への転属日付は定かではないが、これまで稼働していたオハニ61 3輌が昭和53(1978)年9月から11月にかけて廃車されているので、急行運用から撤退した3月以降のことと推測する。
大分運転所の側線でオハニ61428〔分オイ〕を撮っていた。昭和53(1978)年11月に廃車されている。 S52(1977)/9 大分運転所
大分川左岸の台地を下って来た列車は賀来の手前で平坦な区間となり、山裾に広がる住宅団地を望みながら市街地へと入って行く。 オハニ3615〔分オイ〕連結の下り大分行2635レ 賀来~南大分 S53(1978)/11
D60が消え去って早や9年。しかし客車やスジは当時と何も変わっていない。連綿と続く午後の豊後森発大分行は列車番号こそ変われ今も健在であった。 DE101174〔大〕の牽く2635レが稲の実る築堤を行く。 鬼瀬~向之原 S55(1980)/9/14
一方50系客車は昭和53(1978)年3月から筑豊本線・上山田線、翌年2月に日豊本線・田川線、4月に豊肥本線、10月に鹿児島本線と勢力を拡大していた。遅ればせながら久大本線は昭和55(1980)年11月に鳥栖と大分に配置され、旧形客車から50系客車に置換えられた。久留米口で4往復、大分口で3往復が赤い50系客車の運転となった。50系客車+オハニ36の編成は2組用意され、大分~鳥栖~豊後森~大分の順番で運用されていた。
赤い50系客車は昭和54(1979)年春頃より日豊本線・豊肥本線で見られるようになった。久大本線が旧形客車から50系に置換えられたのは昭和55(1980)年秋のことであった。旅客車は新しくなったが荷物車はそういうわけにいかずオハニ36はもうしばらく活躍することになる。 DE101018〔大〕が牽く豊後森発大分行2633レ 豊後中村~野矢 S56(1981)/1/8
久大本線ローカルで働き始めたオハニ36の連結相手はオハ35やオハ47等の旧形客車であったが、それは長くは続かず新鋭の50系客車が相手となった。旧形客車の時は貫通幌で行き来できたが50系に変わってからはオハニ36の向きを反対にし、客扱いは締切となった。私が撮った50系+オハニ36の列車は昭和59(1984)年1月が最後で、オハニ36もこの年の2月から8月にかけて廃車になっているので荷物輸送もこの時期に終了したものと思われる。
オハニ36の向きは旧形客車時代の時とは逆向きに組まれ、客扱いはしていない。 DE101038〔大〕牽引の2633レが久留米起点138キロポストを行く。 南大分~大分 S56(1981)/3/8
DE101174〔大〕の牽くオハニ36+50系5連の2633レが由布岳を背に、1線撤去された南由布に到着した。 S58(1983)/12/5
50系3連+オハニ36の編成が久大本線7番ホームで発車待ち。前寄りの客車から暖房のスチームが吹き出している。 636レ 大分 S59(1984)/1/17
久大本線の郵便荷物輸送は、客車はオハニ61とオハユニ61、気動車は昭和44年に新製配備されたキハ45 600番台を始めとして、電気式気動車キハ44100改造のキユニ16・キハユニ16、キハ26改造のキユニ26と多彩であった。改めて久大本線のローカル列車の変遷を俯瞰すると、牽引機はD60からDE10へ、気動車は近郊形から急行形へ、客車は旧形から50系へ、オハニ61からオハニ36へと時間の経過と共に上位の車輌に置換えられて行く過程を見届けられて幸運であった。
「国鉄時代vol.68 2022年2月号」(ネコ・パブリッシング/R3(2021)12/21刊)掲載