転轍器

古き良き時代の鉄道情景

D60の配置と動向について



 D60の分布と動向を手元にある配置表から辿ってみた。D50から改造された78輛のD60は昭和32年の時点で9箇所に配備され、根室本線、横黒線、磐越東線紀勢本線山口線筑豊本線日豊本線久大本線で使われていたようだ。(北上線はこの時点では横黒線の名称であった。北上は元黒沢尻。)

 昭和36年になると配置区は豊後森、出水が加わって11箇所となる。移動を見ると池田と津和野から西部支社に8輛が移り、内訳は門鉄2、分鉄3、鹿鉄3の増加であった。出水配置車は水俣〜出水間の補機に投入と聞くも、八代で撮影された罐も目にしているので鹿児島本線での運用区間が気になる。大分配置車も久大本線と思いきや日豊本線でも使われていたようである。配置区の名称は津和野は山口線管理所、大分は昭和35年3月に大分機関区と大分客貨車区が統合して大分運転所に変わっている。

 昭和38年は大きな変動はなく、直方が2輛減、豊後森の3輛は大分、出水に移ってD60の配置は無くなった。直方はこの時点でD50が10輛いてD60と合せて19輛の多きを数えていた。運用範囲は鹿児島本線は外浜〜東折尾、原田〜鳥栖筑豊本線上山田線であった。久大本線内で撮影された直方の機番も目にしていて、変則の仕業もあったのかもしれない。

 昭和43年になるとD60は一気に数を減らしていた。北上線は(昭和41年横黒線から改称)昭和42年にDL化されてDD51と交代している。根室本線紀勢本線山口線は共にD51へと機関車の形式変更で昭和38年からは半数以上減っている。西部支社は電化で柳ヶ浦から、D51と交代で出水からD60の姿は無くなった。国鉄の地域別組織の名称は北海道、東北、新潟、関東、中部、関西、四国、中国、西部の支社に分けられていた。西部支社は門、分、熊、鹿の4局で、門鉄は機関区13、管理所1、分鉄は機関区2、運転所1、熊鉄は機関区2、鹿鉄は機関区4、管理所1が配置されていた。

 ヨンサントウで磐越東線はDL化となり、D60はDD51と交代し郡山から姿を消す。直方と大分で23輛となる。郡山から煙突の短い52が直方へ、シールドビームの58・71が大分へ移動した。残念ながら元津和野の化粧煙突の2と9、パイプ煙突の3と12は配置表から消えている。

 久大本線はいよいよ風前の灯火となり、直方は大分からの69・71が加わって2輛増の13輛となる。昭和32年から不動の機番は、直方では25・26・27・28・31・32・33の7輛、大分では61・62・63・64・65・67の6輛を数える。

 昭和45年10月、久大本線暫定DL化で大分にDE10の予備3輛を残して5輛が直方へ移り、直方は18輛の多きを数える。

 昭和46年10月、D60の総数に変化はなく、62が昭和46年3月に、64・65はこの配置表の翌月の11月に直方に移り、大分での配置は終息する。

 直方で最大21輛を誇ったD60も次々と全検期限を迎え、前年から12輛が廃車され残り7輛となる。

 直方の2輛はこの後若松に移って直方での配置は終息する。若松では昭和48年6月に69、7月に22が廃車されている。明けて昭和49年、46・61の順に廃車となり両機とも福岡県で保存された。奇しくも大分に在籍した2輛がD60最期の機番となった。D6061は昭和29年、改造新配置から昭和45年まで大分で16年、昭和47まで直方で2年、昭和49年8月の廃車まで若松で2年、改造後20年の稼動はD60一番の長寿であった。