転轍器

古き良き時代の鉄道情景

日田彦山線 線形の変遷について

 数年前に「小倉鉄道開業から100年」という記事に触れて日田彦山線の成立過程に興味を持つようになった。D51のセメント・石灰石列車に魅了されていた頃には思いも及ばなかったが年齢を重ねるとともに歴史にも目が向くようになったのかもしれない。手持ちの書籍を参考に大まかな流れがわかればと紐解いてみた。 D51344〔門〕の牽く石灰石セキ編成 日田彦山線石田 S48(1973)/3/29

 ■明治29(1896)年2月

 後の日田彦山線に繰入れられる伊田から後藤寺にかけては、当初は筑豊炭田の石炭搬出を目的に豊州鉄道が行橋から建設したものであった。

 ■明治29年頃の九州における鉄道開通図

 明治29年当時の鉄道建設はどの程度進んでいたのか調べて略図にしてみた。後の鹿児島本線佐世保線日豊本線(小倉~行事)は九州鉄道が、後の筑豊本線上山田線・幸袋線・伊田線筑豊鉄道(←筑豊興業鉄道)が、後の日豊本線(行橋~長洲)・田川線は豊州鉄道がそれぞれ路線網を延ばしていた。後者2社はこの後九州鉄道と合併し11年後に国有化された。

 ■明治32(1899)年7月

 豊州鉄道は豊前川崎まで延伸した時に九州鉄道と合併した。

 ■明治36(1903)年12月

 ■大正4(1915)年4月

 筑豊炭田の石炭を最短距離で、また石原町や香春の石灰石を北九州の港へ搬出する目的で小倉鉄道が開業した。日田彦山線の北部分の線形が見えてきた。

 ■昭和12(1937)年8月

 

 日田彦山線南側の一部が姿を現した。この時日田に鳥栖機関区日田駐泊所が開設され、矩形庫と転車台が完成しC11が配置された。

 ■昭和17(1942)年8月

 レイルNo/2(プレス・アイゼンバーン/昭和53年5月)所収の「まきのしゅんすけの九州私鉄早や回りー小倉鉄道の巻ー」に東小倉駅の記述があるので一部抜粋。『小倉鉄道の起点である東小倉駅は、国鉄にはなくて小倉駅より少し戻らなければならなかった。駅で道順を尋ねると、駅前から電車で行きなさいという事で、すぐ前を走っている古めかしい2軸の電車の客となった。線路沿いにずっと道路が並行し、南側には家が点々とあり、北側は東小倉駅までずっと操車場であった。(中略)ガタンゴトンと東小倉駅前に着いた(中略)木造駅舎でいかにも炭礦の町らしい雰囲気であった』。貨物と荷物センターの東小倉駅しか知らない私にはとても刺激的な紀行文で、遠い過去への郷愁を呼びおこされる。

 ■昭和21(1946)年9月

 彦山線宝珠山~大行司間が延伸開業する。後は釈迦ヶ岳トンネルの貫通を待つばかりとなる。

 ■昭和31(1956)年3月

 彦山線大行司と彦山がつながって東小倉~夜明間が全通、線名は日田線となった。北九州から日田方面へは久留米経由でしか行けなかったのが時間と距離ともに短縮された。

 ■昭和35(1960)年4月

 昭和35年4月は路線名称の整理が行われ、東小倉から大任経由、夜明までの日田線は城野から石田間、香春から伊田間それぞれの短絡線によって、城野・東小倉ー香春ー伊田ー後藤寺ー添田ー夜明間が日田彦山線と改められた。行橋から添田間であった田川線は行橋ー伊田間となる。かつて東小倉から添田間で呼称された添田線は香春ー大任ー添田間で名称復活した。昭和40年代に初めてこの地を訪れた私にはこの路線名称が一番の馴染みであるが、運転系統は以前の田川線を彷彿させる行橋発添田行などが存在していた。

 ■昭和37(1962)年10月

 幾多の変遷を経て日田彦山線の線形はこの形となって、私が知っている日田彦山線はまさにこの姿であった。本州直通の急行「あきよし」を始めとして「あさぎり」「はんだ」「日田」が運転された。全線通して門司機関区のC11が客車列車を牽き、香春以北は石灰石・セメント輸送にD51が投入されていた。呼野のスイッチバックや金辺峠で奮闘するホキ列車、釈迦岳を越え、筑前岩屋付近のアーチ橋を行く列車の光景を思い浮かべる。

 英彦山の山間を行く 日田彦山線筑前岩屋~大行司 S51(1976)/9/20