D50やD60牽引で絵になった石炭列車も、昭和47(1972)年夏の訪問時は、旅客列車も含めてD51牽引ばかりになったといっても過言ではないほど勢力図が変わっていたのを知らされた。D51315〔直〕は昭和47(1972)年6月、羽越本線電化に伴う酒田からの転属機で、長いセラ編成を従えていた。 1657レ
東折尾方からの第1下り線、若松方からの第2下り線が揃う手前、第1上り線を乗越す坂道に若松から来たD6046〔直〕牽引の貨物列車が姿を現す。 試8751レ
D51545〔直〕は昭和47(1972)年3月、肥薩線DL化の際に人吉から直方へ転属している。集煙装置も外されて筑豊の罐となって石炭列車を牽いて来た。下り線をアンダーパスすると線路別複々線となり、折尾接続線から東折尾、黒崎、西八幡、枝光を抜けて戸畑西部へ至る。 戸畑西部行1670レ
バラエティに富んだ編成は東折尾→中間→若松とルートもユニークな小運転列車で、デフ無しの19633〔若〕が牽いている。線路沿いは宅地開発が進んでいるのがうかがえる。 586レ
若松機関区受持ちの客車列車は従来C55・D50が担っていたが、他区からの転属機D51と交代するようになり昭和47(1972)年8月時点で、D51は6輛になっていた。D50とC55の引退、鳥栖と直方のDD51進出で、客車列車は待っていてもD51しか来ないのは後にわかったことだ。原田・飯塚・上山田・直方のスジは皆D51に取って替えられていたようだ。この後D51の検査期限の調整から直方のD60が若松へ転じている。
鳥栖から転属となったD511064〔若〕が牽く若松発飯塚行727レ。
京都発熊本行急行“天草”は門司・小倉・戸畑・八幡と停車した後、筑豊本線内は直方・新飯塚・飯塚に停まり、原田は通過して再び鹿児島本線に出て鳥栖へ進む。豪華な11輛編成はスハフ43・スロ54・オロネ10・スハネ16…と続く。 209レ“天草”
キハ20+キハ30+キハ45の3連若松発直方行729D
2線の上り線が離れるこの辺りは、昭和40年代初頭に撮られた写真を見ると、日本炭鉱の鉱業所があって複々線を跨ぐ巨大なベルトベルトコンベアが架けられて、炭鉱地帯の真っただ中の印象があった。
飯塚発若松行726レは9輛の長大編成。牽引機D51542〔若〕は鹿児島電化の際、出水から若松に来た罐である。
香月線客車列車は早朝若松から回送で香月に4輛編成を送り込み、香月120レ-中間123レ-香月122レ-折尾125レ-香月124レで若松へ戻る、8620牽引の3往復が運転されていた。 125レ
朝の香月線仕業を終えて若松へ戻る88622〔若〕が牽く124レ。若松方面(第2上り線)と東折尾方面(第1上り線)が離れる辺りに2基の上り閉塞信号機が建っている。
2筋の上り線の間から中間方を撮る。第1上り線と第2下り線の立体交差は前後の用地の広大さからダイナミックに造られているのが実感できる。そして若松や、戸畑・門司方面への石炭満載の1,600トン列車が上り勾配にならないように設計されていたのも後になって理解し、感動を覚える。折尾から中間まで歩いた途中のこの地点は、私にとって魅惑の鉄道地帯といえる。
時刻表のキロ程で、筑豊本線折尾は若松起点10.8Km、中間14.9Kmと記載されている。折尾~中間間駅間距離は4.1Km、立体交差の位置はどの辺りであろうかと手がかりを探した際にキロポストが写ったネガを発見する。第2下り線が第1上り線を乗越す勾配上に13キロポストが建植されていた。
撮影:筑豊本線折尾~中間 S47(1972)/8/11