昭和49(1974)年から50(1975)年にかけて時々都営地下鉄高輪台駅で乗り降りする機会があった。当時、地下鉄は単なる移動の足としての捉え方で趣味の対象とはなっていなかった。それでも鉄道好きの端くれとして誰に教わったわけでもなく、1号線は東京都の車輛だけでなく京成、京急の電車が相互乗入れしていることを理解する。

ポケット時刻表のサイズはB6用紙を半分に折ったB7サイズであった。所持する時はそれを半分に折れば(B8サイズ)冊子風になる。この時代はどの駅でもこの手の時刻表は備えていたような気がする。三菱ギャランの広告から昭和50(1975)年頃のものと思われる。時刻改正があれば不用となって捨てられるものだが、保存した記憶は無いものの切符収集ファイルに挟まっていたのに気づく。

五反田方面は全て「西馬込」行、押上方面はさまざまな行先があり、また列車種別も特急と急行があって興味深い(地下鉄線内各駅停車)。数えると202本の列車が運転されていた。押上方面行先別を整理すると
泉岳寺 69(34%)
押上 4(2%)
高砂 58(29%) 内急行4
小岩 27(13%)
東中山 2(1%)
佐倉 12(6%) 内急行11
成田 30(15%) 内急行20 特急10
の内訳である。泉岳寺折返しが圧倒的で、押上止りは思った以上に少ないことがわかる。
運転間隔は早朝夜間7~8分ヘッド、日中4分半~5分ヘッドで運転されている。泉岳寺以遠は運転本数がもっと多いと思われる。急行は各時間帯に概ね3本、17時~18時台だけ成田行特急が設定されているのは何か理由があったのかもしれない。

東京都の電車も京成電鉄の電車も塗色は同じだったといった認識はなかったが、側面の扉が異なるのを観察していた。都営は国電と同じ両開きに対して京成は片開きだったのが印象に残っている。気動車のような塗色と丸っこい車体は独特であった。

次駅の泉岳寺は京急が乗入れていることを知り、ある日出向いてみた。驚いたのは2面ホームの両側は京急接続線、内側は高輪台からの線が見事に効率よく配線されていたことだ。地下鉄の事に何もわからない自分であったが、ここで見た配線は、以後に見聞する東急東横線・東武伊勢崎線・営団地下鉄日比谷線、小田急小田原線・国鉄常磐線・営団地下鉄千代田線、国鉄中央本線・総武本線・営団地下鉄東西線などの相互乗入れと同様で理解することができた。ステンレスの都営車輛は少し年代が後かもしれない。見た、乗った記憶はあると思う。

京浜急行電鉄は当時、品川から三浦海岸までで、地図を見ても品川が始発駅、頭端駅だとばかり思い込んでいた。未知の地下鉄道探検気分で泉岳寺へ赴き、京浜急行本線向け電車へ乗車する。驚いたのは、地下から地上へ顔を出したと思った瞬間、一気に高架へ駆けあがったのである。京急品川に線路がつながっていたことを実感し、まさに驚きであった。まるでジェットコースターのような、このような急勾配が存在するなどにわかには信じられないことであった。
品川のホームから泉岳寺方を遠望すると、京急線折返し引上線の両側は地下鉄線泉岳寺へと向かうまるで断崖絶壁を駆け下りるような勾配が控えている。イラストは都営地下鉄1号線乗入れ列車が急勾配で地下へと消えて行く衝撃的な印象を描いたものである。

私が利用した都営地下鉄1号線五反田~高輪台間は駅間0.7Kmであった。日頃は徒歩の距離である。ただこの区間の地下鉄1号線は国道1号線通称桜田通りの地下を通り、五反田から高輪台にかけてはかなりの上り勾配で、急ぐ時に地下鉄を利用した訳である。
後に聞いた話ではこの上り勾配を都電4系統(五反田駅前~銀座1丁目)が走っていた。モータリゼーションの進展により昭和42(1967)年12月に廃止されたとのことである。その後の都営地下鉄1号線とは少しコースが異り、カツミ模型店最寄りの「魚籃坂下」電停は都バスのバス停へと置換わっていた。地下鉄、都バスとも40円だったように記憶している。
地下鉄の事はよくわからなくて興味はそこまでわかなかったが、汽車好きの、終点に行ってみたい、分岐する所に行ってみたいの思いは根底にあったようで、車輛の写真を撮ることはなかったけれど、今振り返って懐かしい時代を味わっている。都営地下鉄1号線はその後浅草線と呼称されるようになったようだ。