転轍器

古き良き時代の鉄道情景

大分交通宇佐参宮線

宇佐参宮鉄道は官設鉄道宇佐駅を挟んで宇佐神宮のある宇佐町と周防灘に面する高田町を結び、大正5年3月1日に開業した。大分交通宇佐参宮線となったのは、国東・宇佐参宮・耶馬渓・豊州の各鉄道を合併した別府大分電鉄が大分交通として商号変更した昭和20年4…

101系・103系 非冷房の頃

目黒付近の地形は都会とは思えない深い谷があった。わざわざ山手線の103系を撮りに来たのではなく、掘割のような低い位置を通る貨物列車が目当てであったが、うぐいす色の電車しかやって来なかった。目黒を出て恵比寿へ向かう編成は貨物線をオーバークロスす…

北千住から乗った旧形電車

カーラジオから流れてきた曲の「北千住駅のプラットホーム」の歌詞が耳に留まり、何という曲だろうかと後の検索で“あいみょん”の「ハルノヒ」を知った。と同時に遠い青春時代、北千住駅から吊り掛け電車に乗ったことを思い出す。常磐線、東武伊勢崎線、営団…

緩急車 ワフ・セフ

模型の作例でよく見かけたのはこのタイプの黄帯を巻いた有蓋緩急車で「道外禁止」のレタリングとともに絵になる車輛であった。戦後製のワフ22000を2段リンク改造をせずに65Km/h制限とし、形式はワフ122000とされた。 ワフ122826 宗谷本線抜海~稚内 S49(1974…

車掌車 ヨ

貨物列車の編成の前後に付いていた車掌車や緩急車はとても魅力的であった。機関車メインの写真なのでそれらは写ってはいるが、どれも小さくて外形は皆同じように見えたものだ。改めて振り返ると形式ごとに様々なバリエーションがあったようで、車掌車(緩急車…

豊州路の汽車電車

蒸機時代、豊後森から日田へ向かう夕方の区間列車があった。趣味誌で見たその列車はD60+8620+客車2輛+貨車のまるでメルヘンの世界のような光景で印象に残っている。そのスジはディーゼル化されることなく50系客車でこの時も連綿と続いているようであった…

相知炭坑貨物駅

昭和58年6月に小学館から刊行された「国鉄全線各駅停車10九州720駅」の巻末綴じ込みに廃止停車場一覧表が載っていた。地図には載らない自分の知らない駅や信号場が多数あって興味深く見入っていた。目に留ったたくさんの気になる駅のひとつが唐津線の相知炭…

唐津線と筑肥線の立体交差

佐賀と唐津を結ぶ国道203号線を唐津方面へ走って行くと、相知市街地を抜け、松浦川を渡った辺りから始まる不思議な鉄道風景に目を奪われる。並行して走る唐津線が松浦川をトラス橋で渡ると、それよりも高い位置を通る線路敷らしきものが目に入る。回り込んで…

富山地方鉄道射水線

富山地方鉄道射水線八ケ山駅は始発駅の新富山から2つめ、高山本線と北陸本線を跨いだ先にあり、ホームから階段を昇って少し高い位置に三角屋根の、まるでおとぎの国のようなかわいい駅舎が建っていた。 射水線八ケ山 S51(1976)/9/15 宿でくつろいでいると列…

クモハ42005

宇部・小野田線の旧形国電は105系によって新性能化されたことを趣味誌の便りで伝え聞いていた。小野田線の本山支線は単行運転が行われていたので両運転台のクモハ42が残っていたと思われる。所用で山口に行った帰り、宇部新川へ遠回りした甲斐があって運良く…

宇部線・小野田線の旧形国電

クモハ41024〔広ウヘ〕 小野田駅1番線に宇部新川往復のクモハ41+クハ55の2輛編成が待機していた。クモハ41は前面部分が緩やかなカーブを描く半流線形で、黄色の警戒色が良いアクセントとなっていた。側面はウインドシル・ヘッダーのリベットや運転席の扉、…

原田の機回し

蒸機の時代、冷水峠へ向かうためこの駅に降り立ってから20年以上経過していた。夜明前の乗換えであったので構内の写真は撮っていない。転車台があるうちに再訪したいと思いつつ時は流れて平成の時代になっていた。 訪問時は昭和50年代末期頃の配線と大きな変…

ノスタルジックトレイン

本を読む機会はめっきり少なくなった今、病院や歯医者の待ち時間に気ままな汽車旅を綴った内田百閒の「阿房列車」(新潮社刊)シリーズを読んでいた。「第三阿房列車」に収められた「長崎の鴉 長崎阿房列車」の頁をめくっている時に私の汽車の壺をくすぐられた…

回転火の粉止め 藁屋根の時代

この写真は昭和35年頃の久大本線天神山駅の様子で、父親が遺したネガから見つけたものである。汽車の写真を撮る趣味は無く、汽車に乗って出かける際のスナップと思われる。私の昭和30年代の移動といえば、徒歩とボンネットバスとD60が牽く汽車が全てであった…

第5玖珠川橋梁

日田杉の山々と穏やかな玖珠川の渓流が織りなす景色の中、久大本線下り気動車列車は第4玖珠川橋梁を渡り、第5玖珠川橋梁手前のR400の左曲線を進む。 久大本線最後の開通区間、日田~天ヶ瀬間は蛇行する玖珠川を7回も渡る山岳地帯の難所であった。昭和9年11月…

七尾線羽咋辺り

羽咋市街を走る七尾線は能登半島中ほどの丘陵地帯がとぎれる平地を進んで半島を横切る線形を描いている。羽咋川沿いの田園地帯で七尾線上り列車を待つ。やって来たのは5輛編成の金沢行で5輛全て形式のちがう楽しい編成であった。 能登中島発金沢行342D 七尾…

D6021のこと

D6021〔大〕が上り列車を牽いて力強く日田を後にする。貨物側線は木材積載のトラが見える。 久大本線日田 S44(1969)/4/1 由布院発日田彦山線経由博多行急行“ひこさん”の先頭車はキハ55だろうか?フロントガラスから天ヶ瀬駅の情景が捉えられていた。待ってい…

527列車 オハ35632の車内から

527列車は日豊本線下り門司港発大分行である。この列車に行橋から大分まで乗車し、途中の交換列車や車窓にカメラを向けた。列車内は人が写るので撮ることはなかったが、この時はどういうわけかオハ35の車内を1枚だけ撮っていた。乗客が少なくなったところで…

富山・魚津で会った汽車・電車

北陸本線富山駅は富山地方鉄道新富山へ行くのに立寄った時、魚津駅は富山地方鉄道本線から北陸本線に乗換える時、それぞれわずかな時間に偶然出会った列車を撮ったものである。毎度後になって思うことであるが、車輛だけにしかカメラを向けていないので駅構…

ロマンスカー

プリントしていないネガに2コマだけ東武のロマンスカーが写っていた。撮影旅行ではないのであまり記憶に残ってはいないが、鬼怒川温泉で開催されたゼミのセミナーに参加するのに浅草から乗車した時、もしくはその帰りの時と思われる。ロマンスカーの名前通り…

青梅線の風景 電車と貨車

友人に誘われて旧形国電余命あとわずかとなった青梅線ハイクに出かけた。出会うのはスカイブルーの103系ばかりであったが、それでも深い谷を跨ぐ雄大な鉄橋の構図は貴重な記録となった。 青梅線二俣尾~軍畑 S52(1977)/12/2 「立川」の前サボを掲げたクモハ4…

小野屋駅と庄内駅のこと 昭和37年の記憶

昭和37年の秋から翌38年春までの約半年間、小学校1年生であった私は学校へ通うのに汽車に乗らなければならなかった。学年途中で家を転居したが転校手続きができなかったので以前の学校まで3駅間の汽車通学となった。朝の登校は小野屋駅から庄内駅まで、下校…

昭和47年懐古

昭和47年は春の新幹線岡山開業、秋の鉄道100年と話題の多い年であった。動力近代化の波は一気に押し寄せて、身近な路線の蒸気機関車が姿を消した一年でもあった。私の昭和47年を振り返ってみた。 昭和47年の幕開けは前年に青森から宮崎に転属となったC612と…

D6026とD6060

蒸気機関車D60は幼い頃から傍らを走っていた私のお気に入りの機関車で、僅かではあるが大分と直方で彼らの写真を残せたのは幸運であった。最近になって、郡山・直方・大分に在籍したD60の写真を見る機会に恵まれて、その容姿と形態を観察していたらD6026とD6…

ワム80000

貨車の標記は実に楽しい。扉左の標記板は符号(ハ)・記号(ワム)・番号(184173)がレタリングされている。その下は票差しが2つあって左は貨車車票差し、右は貨車表示票差し、その間に積・空標記(積2.2空1.0)がレタリング。扉右の標記板は運用票板である。扉右側…

行橋のC50

行橋のC50を知ったのは鉄道ジャーナル23(昭和44年7月)号に掲載された『蒸気機関車1969年日本縦断リレー・ルポルタージュ7北九州』の記事で、日豊本線・苅田港線の小波瀬~苅田港間にC50と9600が運用されている、という内容で苅田港線を行くC50+9600重連の貨…

下郡 基地の風景

日豊本線と豊肥本線が離れる場所に造成された車輛基地は大分電車区で、昭和42年7月に発足している。豊肥本線上に設けられた下郡信号場から分岐しヤードが広がる。地元の人は「下郡の電車基地」と呼び、地域の場所説明の際は「でんしゃきち」の左右、東西と目…

下郡回送列車

DF50牽引の長駆宮崎からの編成は大分到着後すぐさま後部にC58277〔大〕が連結されて今来た道のとなりの豊肥本線に入って下郡信号場へ向かう。日豊・豊肥・久大の各本線で運用される客車列車は、大分運転所では収容しきれず大分電車区の留置線で昼間留置が行…

下郡信号場のこと

下郡信号場は大分川の東、日豊本線と豊肥本線が離れる場所に位置し、豊肥本線から大分電車区が分岐するのに設けられている。上記の場所は少年時代の私にとって蒸気機関車を身近に見ることのできる魅惑の鉄道地帯であった。日豊本線はD51貨物にC57旅客が、豊…

南大嶺雨景色

家族旅行で雨に煙る厚狭川に沿った、所々で美祢線の線路と並走する道路を走っていた。その美祢線を乗り越す際にふと目に入った光景は見覚えのある駅風景であった。D51の石灰石ピストン列車と大嶺支線の混合列車を撮りに来たのは昭和47年夏、あれから15年の歳…